94年式拳銃 その配備と運用 (月刊ガンプロ誌5月号より)

今月(5月号)の月刊ガンプロ誌に知られざる旧帝国陸軍の拳銃に関して興味深い記事がありますので、記載します。

先ず、殆ど知られていない前提としてこの時代は一般民間人でも拳銃の購入が可能でした。

明治政府は江戸時代の武士文化を引き継いでいたので、「市民は自分で自分の身を守れ」という今からでは信じられない概念が普通だったのです。

従って「血盟団事件」などの拳銃テロ事件があったのです。

これは終戦時にGHQが拳銃所持を禁止してしまい、何故か殆ど知られていない「黒歴史」になってしまいました。

もう一つの知られざる前提は帝国陸軍将校の所持する日本刀、拳銃、双眼鏡は私物で自費購入でした。軍服も同様です。

それを前提にして以下。

「将校私物拳銃における94年式拳銃の位置づけ」

94年式拳銃が将校拳銃として開発され、準制式制定当初には陸軍工廠から購入希望の将校に払い下げされた。

これが終戦時に問題になる。

陸軍の所有物(国有財産)を武装解除で連合軍に引き渡すのなら何ら問題はないが、将校個人が私費で購入した拳銃や軍刀、双眼鏡は個人の所有物で国有財産ではないので武装解除を受ける以前に、所有権を陸軍に移管する手続きが必要となる。

この場合書類を作成して単に将校達に所有権を放棄させるような場合、拳銃ならば100円程度の金額で軍が買い取る形など地域によって所有権移転の方法はまちまちだった。

ここで引用されてる史料は「昭和21年3月13日作成の、第百十師団歩兵第百十連隊 私物兵器移譲者連名簿」

(詳細は省略)

歩兵第百十連隊は、昭和13年に岡山で編成され、すぐに中国南部に送られて転戦。

昭和20年には老河口作戦終盤時に西峡口西方の重陽店での作戦で、米式装備の中国軍の反撃を受けて大損害を出し、救援に向かった第115師団と入れ替わりに第一線から後退して洛陽で終戦を迎えた連隊。

内容として、私物軍刀の所有権移転をした将校が75名

この将校の人数から連隊の総員を推測すれば、1000人強だが、実際には主力は本来の定員の1/3程度。

この状況で私物拳銃は30挺。

そのうち94式は2挺であり、南部14年式も3挺でしかない。南部式(パパナンブ)が1挺

30挺の内、24挺が外国製拳銃で、国産拳銃所持者は少数派ということになる。

この理由はおそらく拳銃の購入価格で、最も安価な国産拳銃である94年式の昭和10年(1935年)の価格が50円で、すぐに60円に値上げしたのに対し、昭和12年に大阪偕行社で販売されていたブローニングM1910

が42円。

スペイン製ローヤル拳銃

は12円

更に安価なスペイン製ブルーワーク拳銃

に至っては12円であったことから、拳銃に対する好みの問題ではなく、拳銃を私費購入する将校の懐具合が最優先であったと考えられる。

一方拳銃の実弾は243発しかなく、1挺当たり8発でこの将校たちは拳銃で戦闘を行うことを想定してなかったことが分かる。

そうであるならば、安価なスペイン製であっても?舶来”の拳銃の方が押しが効く(見栄もある)というものだろう。

こうなると94年式だけでなく日本製拳銃全般が外国製拳銃に比べて高額であったために、性能云々ではなく、決して裕福ではなかった日本軍将校には歓迎されなかったという事情が垣間見える。

(※何だか今と同じですね)

「その理由(※物凄く興味深くコンパクトに日本軍の問題を纏めている)」

このあたりの事情に関しては、将校の軍装という個人武装が将校自身の自己負担という欧州の軍隊(日本の場合、当初はフランスで後にイギリス、ドイツと変遷)の規範をそのまま日本に持ち込んだことが大きな原因だと言えるだろう。

当たり前だが、日本と欧州では社会背景が大きく異なり、特に欧州の将校が大半が大土地所有の裕福な貴族か、それに類する階級の者であり(映画「戦争のはらわた」でマイヤー少尉が「シュタイナー、彼(シュトランスキー大尉)はプロシア貴族でユンカー(大地主)なんだぜ」というセリフがありましたね)

軍装や武装の私費購入に関してそれが大きな経済負担にならなかったのが故の規範と言える。

もちろん欧州の貴族は騎士に端を発していて、これは日本の場合ならば武士階級だが、日本の武士は施政権と徴税権(それも僅かな)こそ持っているものの、直接土地を所有するということはなかった。

このために明治維新後に秩禄処分を受け取ると収入の途を失った武士は急速に社会クラスとしては没落し、日本社会は欧州に比べて非常に平等な(経済的に)社会となってしまった。

このような社会では、人数の多い陸軍将校という職業は給与的に劣後するため、(大正期の日本軍の不人気ぶりから理解できる)より優秀な人材は同じ高等官を目指すならば軍人以外の高級官僚(すなわち陸軍参謀本部)を目指すことなる。

それが陸軍将校団の大きなコンプレックスとなって昭和初期の陸軍による国政への容喙の一因になったように思われる。

軍人志望者の人材的二流化は、WW1以降(原文はWW2だがWW1の間違いだろう)に欧州で貴族が没落して以降は欧州の軍隊に見られた現象だが、日本は同じ現象が数十年早く起こり、且つ、民主主義や政党政治が未熟だったことが、軍国主義に直結する悲劇を引き起こしたと言えよう。

さしずめ、高価な国産拳銃も買えず、軍刀は夜店の骨董屋で購入し、部隊に皇族が来賓する際にも軍服の新調は見合わせて階級章の新調にとどめと申し合わせをしなければならない隊付きの無天(ノンキャリア)の中流サラリーマンである、陸軍将校にとって、購入拳銃の選択は、その拳銃の詳細な評価より、価格が最優先であったという事だろう。

※これでモヤモヤが晴れた。

一部の将校の横柄な態度(特に有名なのは花谷 正)がそれが原因。要は陸軍大学校卒云々ではなく、相手の将校がビンボー人だったからそれを思い切りバカにして虐めてたわけね。

主題に戻るが、本来は将校に出来る限り94年式を支給しようとしたが、絶対数の不足から14年式拳銃と外国製拳銃でそれを補っていることもくみ取れる。

基本的に陸軍の拳銃の主流は14年式であり、以外にも26年式も敗戦まで使用された。

日本軍は将校用拳銃を官給化するのが遅すぎて、急激に増加する将校への拳銃支給が追い付かず、巷間に言われるほど飛行隊や戦車隊には支給されなかったというのが結論であった。