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【そもそも人間学とは何か】 学修の基本則:「礼」と「楽」

知古嶋芳琉です。

 物事が次第に分かってくると、

何事においても、

そう簡単にものが言えなくなります。

 思慮が浅く軽薄な愚か者ほど

騒がしくしゃべりまくりますが、

人物ができた重厚な人ほど、思慮深く物静かであり、

一旦口を開けば、

たった一言の発言で

満場の人びとを一瞬で黙らせてしまい、

今まで騒ぎたてていた連中には恥じ入らせ、

ひれ伏せさせて、

顔を上げることができなくさせてしまいます。

 終戦の詔勅の原案に加筆修正しても、

時の内閣の

愚かな大臣たちに拒まれた安岡先生は、

終戦後のある時、

彼らにこの一言を言われたお話しは

あまりにも有名です。

ちなみに、大臣たちが削除したのは

「義命」

という言葉でした。

−−−

 引き続き、

私が師事した安岡正篤師の講義録、

『人物を創る』「大学」「小学」(プレジデント社

の中から、

この本の後半、

『小学』のご紹介です。

−−−ここからは引用です−−−

処世の根本法則 小学

第一章 独を慎む

3、 学修の基本則

○ 「礼」と「楽」

 「礼」とは今日の言葉でいえば、部分と部分、

部分と全体の調和・秩序であります。

人間は常に自己として在ると同時に、

自己の集まってつくっておる全体の分として、

それぞれみな秩序が立っておるのでありまして、

これを

「分際」

という。

限界であります。

これに対して自分の存在を

「自由」

と言う。

人間は

「自由」と同時に

「分際」として存在する。

これを統一して「自分」というのであります。

したがって

自己というものは、

自律的統一と共に自律的全体であり、

全体的な調和であります。

 これが「礼」というもので、

あらゆる自己がそれぞれ「分」として、

全体に奉仕してゆく、大和してゆく。

それが

円滑なダイナミックな状態を

「楽(がく)」というのであります。

「礼」と「楽」とは、

儒教のもっとも大切なものの二つであります。

全体的調和を維持していくには、

どうしても各々が「自分」にならなければならない。

自己になってはいけない。

自己は「私」というもので、

私という字は禾(のぎ偏)にムと書きますが、

ムは曲がるで、

禾(いね)を自分の方に曲げて取ることで、

それをみんなに分けてやるのが「公」であります。

いかに「自己」を抑えて

「自分」になるか、

これが

「己(おの)れに克(か)って礼を復(ふ)む」

ということであります。

復は「かえる」でもよろしい。

顔回がそのことを孔子に尋ねた。

すると孔子が言われるには、

非礼は視てはいけない。

非礼は聴いてはいけない。

非礼は言ってはいけない

非礼は行なってはいけないと。

この四つは身の用である。

そこで、

伊川先生はこの

視・聴・言・動の四つを警(いまし)めとして

道の学問に精進したのであります。

秉彝(へいい):「秉」は、執(と)る、「彝」は、(つね)。

すなわち不変性・法則性をいう。

機は機微・ポイント。

非礼は

「礼に非(あら)ずんば」と読んでもよろしい。

○ 氾益謙の座右戒

−−−原文−−−

 氾益謙(はんえきけん)座右の戒に曰く、

 一、朝廷の利害・辺報・差除を言わず。

 二、州県官員の長短得失を言わず。

 三、衆人作(な)す所の過悪を言わず。

 四、仕進官職、時に趨(はし)り勢に附くを言わず。

 五、財利の多少、貧を厭(いと)い、

    富を求むるを言わず。

 六、淫【せつ】・戯慢・女色を評論するを言わず。

 七、人の物を求覓(きゅうべき)し、酒色を干索する

    ことを言わず。

 また曰く、

 一、人書信を附すれば

    開拆(かいたく)沈滞すべからず。

 二、人と並び坐して人の私書を

    窺(うかが)うべからず。

 三、凡(およ)そ人の家に入りて

    人の文字を見るべからず。

 四、凡(およ)そ人の物を借りて

    損壊不還すべからず。

 五、凡(およ)そ飲食を喫するに

    揀択(かんたく)去取すべからず。

 六、人と同じく処(お)るに、

    自ら便利を択ぶべからず。

 七、人の富貴を見て

    歎(たん:なげく)羨(せん:うらやむ)

    詆(てい:そしる)毀(き:悪口を言う)す

    べからず。

凡(およ)そ此の数事、

之を犯す者あれば以って用意の不肖を見るに足る。

心を存し身を修むるに於いて大いに害する所あり。

因(よ)って書して以って自ら警(いまし)む。

−−−原文の解説−−−

 氾益謙(はんえきけん)は

北宋の名臣祖兎(そう)の子、

沖(ちゅう)という注もありますが、

詳(つまびら)かにしません。

<その座右の戒に曰く、

一に、朝廷の利害に関することや国境の問題、

あるいは転任・任命に関することは言わない>。

その道の人が話し合うのはよいが、

何も内情の分からぬ者が

政府のいろいろの問題を

とやかく言うのはいけないことであります。

私生活に

公生活・職生活の問題を持ち込むことも、

決して好ましいものではありません。

水も使いっぱなしではいけないので、

やっぱり貯めることも必要であります。

私生活は言わば貯水池のようなもの、

なるべく別天地にしておきたいものであります。

その意味で同職の夫婦は

往々にして失敗するものです。

たとえば

医者がさんざん患者を診てうんざりして家に帰る。

帰ったらこれまた医者の奥さんが患者の話をする。

これでは朗らかになれる筈がない。

夫婦というものは

違ったものがいっしょになるのがよいのであります。

その意味においても男と女は違わなければならない。

ところが近頃は男が女のように、

女が男のようになって

区別がつかない。

これは生物の世界から見ても退化現象であります。

生物の世界も、

繁栄するときには多種多様性を帯び

生命力が沈滞してくると単調になってくる。

今日の文明はあまりにも単調になり過ぎております。

思想を右と左に分けたり、

イデオロギーを振り廻したり、

生の複雑微妙な内容や特徴を無視して、

極めて単調化してしまう。

これは一つの抽象化現象であります。

みだりなる抽象化は生の力を阻害する。

これは肉体現象でも精神現象でも

明瞭なことであります。

イデオロギーなどをもてあそぶのは、

人間が浅薄になっておる証拠です。

だから本当に物が分かってくれば、

べらべらしゃべらない。

いずれにしても日常の私生活にまで、

つまらぬ社会問題など

論じない方が良いのであります。

<二に、地方官吏の長短や得失などを言わない。

  三に、民衆のなすところの

      過(あやまち)や悪事を言わない。

  四に、官職にあっては、時の勢力にくっついて

      走りまわるようなことは言わない。

  五に、財物や利益を追って、貧乏をいとい、

      富を求めるようなことは言わない。

  六に、性欲や戯慢(不真面目なことや、だらしの

      ないこと)や女色に関するようなことは言わ

      ない。

  七に、人に物を求めたり、

      酒色を催促するようなことはしない。

また言う、

一に手紙を着越せば、

これを開くのを放って置いてはいけない>。

 私などもこれは常に心掛けておるのでありますが、

なかなか努力の要ることであります。

 <二に、人と並んで坐って、

      他人の私書をのぞいてはいけない。

  三に、他人の家に行って、

      私人の書いたものを見てはいけない。

  四に、人に物を借りて、損じたり、

      返さなかったりしてはいけない>。

これの代表的なものは書物であります。

貸したら最後、返ってこない。

そこで昔から

書物と花だけは泥棒してもよいとも言う。

情けあることです。

 <五に、すべて飲食に択(よ)り好みを

      言ってはいけない。何でも有り難く食べる

      べきです。

  六に、人と同じくおるのに、

      自分だけ都合のいいように択ぶことはいけ

      ない。都会におって電車などに乗ると、実際

      情けなくなります。

  七に、人の富貴を見て羨(うらや)んだり、

      貶(おとし)めたりしてはいけない。

 おおよそ、この幾つかの事、これを犯す者は、

心がけのいけないことがわかる。

修養するのに大いに害がある。

そこで

書して

以って

自ら警(いまし)むるの戒としたのである>と。

−−−引用はここまでです−−−