正統のあかし ふたつの中国 (台湾旅行記 その2)

台湾での初日は、台北で一泊して故宮博物院の見学です。

国立故宮博物院は、だいぶ以前に仕事の合間に立ち寄ったことがありますが、2001年以来、大規模な改修工事が行われその様相は一変していました。館内はとても広くなり、展示公開品数も大幅に増えたうえに、とても余裕のあるスペースでゆっくり鑑賞できるようになっています。

2年ほど前に、台南地区の嘉義市にモダンなデザインの分院が完成、一部の所蔵品はそちらに移されたとのことですが今回は時間がなくてそちらには立ち寄ることはできなかったのがちょっと残念です。

台北の中心から地下鉄で郊外の士林駅に向かいます。地下鉄は、例によって最初は方向がわからなかったり乗り換えが不安でうろうろしますが、台北の地下鉄はとてもクリーンで乗り心地がよい。

そこからタクシーに乗り込んで博物院に向かいます。私の怪しげな標準語はほとんど通じず、かえって日本語のほうが通じます。

ひっきりなしに大型観光バスが正面地下のコンコース乗り付けて、受付階は団体客の列でいっぱいです。それでも一時期の混雑振りから較べればすっかり落ち着いているということです。というのも、独立派の新政権が発足してからは中国大陸からの観光客が激減したからです。このことは台北や台湾各地の観光地でも聴きましたが、そういう話しの最後の捨てゼリフは必ずといっていいほど「かえってせいせいした」というものです。中国人観光客の傍若無人ぶりは台湾では特にひどかったようです。

故宮博物院の所蔵品のほとんどは、もともとは北京の紫禁城(故宮)にあったものです。中国を治めてきた皇帝によって代々伝えられてきたもの。それは王朝が交代しても基本的には国を統べる者の権威を裏付ける宝物として引き継がれてきたのです。

それが辛亥革命によって清朝皇帝が廃され紫禁城から退去させられた後は、北洋軍閥の管理下におかれ一部が一般公開されるようになります。やがて、日本軍の侵略が激しくなったことで時の国民政府の蒋介石総統の命によって南方へ疎開させられることになります。上海を経て南京に一時所蔵されますが、ここにも日本軍の手が伸びるとこの壮大な物量の御物は南京から重慶など中国国内を転々とすることになります。

日本の敗戦後、これらは北京や南京に戻りますが、やがて国共内戦が勃発。形成不利となった蒋介石率いる国民党軍は、大挙して台湾へ逃げ込みます。1948年のことですが、その際に、蒋介石は御物の中から一級の文物を精選し、台湾へと帯同することになるのです。

蒋介石がこれほどにまで故宮の御物にこだわったのは、それが日本の皇室における三種の神器と同じように、中国皇統と支配権力の象徴だったからです。すなわち台北の故宮博物院とは二つの中国の象徴だとも言えます。

展示物のひとつに翡翠(ヒスイ)の屏風があります。

48枚の翡翠の彫り物が装飾された豪華な屏風です。もともとは西太后が愛用していたものですが、蒋介石と訣別し南京に親日的な「国民政府」を樹立した汪精衛(汪兆銘)が、戦中の1941年に訪日した際に昭和天皇・皇后に贈呈されたものです。汪精衛は、孫文の忠実な弟子でありむしろ文弱で禁欲的でさえあった政治家ですが、日本軍閥の好戦性、侵略の野心を見抜けず、「最大的漢奸(日本に寝返った最悪の裏切り者)」として今なお忌み嫌われています。御物を日本の皇室に差し出した行為は確かに「売国奴」のそしりを免れ得ない愚行だったと言えるのでしょう。

そうやってこの一双の屏風は、日本の皇室の手にあったのですが、戦後、昭和天皇はこれを丁重に返還しました。

碧玉白菜など、工芸品などが有名で人気ですが、今回の訪問ではやはり書画や陶器類を堪能しました。

やはり長大な中国の歴史を感じさせると同時に中国文明のその時代の先進性を痛いほどまでに感じさせるのです。かつての日本やヨーロッパが敬い憧れた高い美意識と技術にはため息が出るほど。

昼食は、博物院のアネックスのカフェテリアで軽いものを取ることにしました。

メニューを見てそのメニュー番号と注文数を書いて、それをカウンターに持っていき料金を支払うととやがて料理が運ばれてきます。

安いのでつい注文し過ぎてしまいます。

ひと皿ひと皿がけっこうボリュームがあって軽くすますつもりが満腹。

なかなか美味しいのですが、味はほとんどついていません。ウェイトレスのひとが味は自分で好きにつけてくれと言っていましたが、ようするに素のまま持ってきて味付けはセルフサービスということでしょうか。実はそうでもないということがおいおいわかってくるのですが…。

(続く)